
キリスト教会で洗礼を受けて、クリスチャンかクリスティアノイか知りませんがキリスト教徒になって、イエスの弟子として暮らしはじめます。
キリスト教徒になって何かよいことがあるでしょうか。キリスト教徒はどのような暮らしぶりでしょうか。
イエスの弟子になる
キリスト教会のような組織に所属していなくても、自分はナザレ村出身のイエスの弟子になろうと思って弟子として暮らしている人もたぶんいます。
キリスト教会に通って、キリスト教会で洗礼を受けてイエスの弟子として暮らしはじめる人もいます。
形は様々ですが、キリスト教徒になったらイエスの弟子として暮らし始めます。
イエスの弟子として真面目に生きれば辛い
弟子は師匠と同じ道をたどる
キリスト教の本に、弟子は師匠と同じ道をたどる覚悟が必要で、キリスト教徒になってイエスの弟子として生きるなら最終的に処刑されて無惨に死んでいったイエスと同じ末路をたどる覚悟は必要だと書いてありました。
最後は破滅する
イエスは処刑される前、できれば助けてほしいと神に祈っていて、神に助けてもらえるという期待もあったものと思われますが、最終的に助けてもらえず、弟子も逃げ去って、処刑されました。
新約聖書の福音書には、イエスは神に対して“なぜ俺を見棄てたのだ”という趣旨のことを大声で言って、殺されていったと書いてあります。
このように無惨に殺され、イエス本人も絶望して死んで行きましたが、処刑の際にその場にいたローマの百人隊長が「ほんとうに、この人間こそ、神の子だった」(新約聖書翻訳委員会訳 新約聖書 岩波書店 マルコによる福音書第15章39節)と言ったとのことです。また、その後何があったのかは不明ですがイエスの弟子たちが再び集まってイエスの死について色々と考えたりイエスの生き方考え方にならって暮らし始めました。このような一連の出来事からイエスは無惨に殺されたが神に見捨てられていたわけではないと理解するのがキリスト教で、とても難解です。
表面的に見ればイエスは最終的に無惨に殺されたので、弟子であるキリスト教徒も最終的に破滅します。
弟子は師匠と同じ道をたどる覚悟で暮らします。
その他、辛いことばかりのキリスト教徒生活
キリスト教徒にもいろいろな人がいます。面白おかしく暮らしている人もいれば、暗い生活を送っている人もいます。
一つの例をあげてみます。
明るく快活な性格ならキリスト教会に居場所はあるかもしれませんが、そうでなければ教会に居場所はあまりありません。
私生活では低収入で、働きすぎで健康は害し、だるさ・頭痛・腹痛・腰痛・膝痛・股関節痛・貧血などに悩み、人脈はゼロで社会から孤立して生きます。
最終的に破滅し、死にます。
死んだことを知る人は行政機関の人と賃貸住宅の管理会社の人と清掃会社の人と神の合計数人かもしれません。
「自分から望んでナザレ村出身のイエスの弟子になったのだから、師匠のイエスと同じように破滅して孤独に無惨に死んでいくのは弟子として当然の最期か・・・」と思いながら死んでいきます。
キリスト教徒として真面目に生きようとすれば良いことは特にありません。
救われたくて神に救いを求めてキリスト教徒になって、最終的に師匠のイエスと同じように破滅して死んでいくのがキリスト教徒の暮らしです。
辛いです。
